伽耶国の成立

韓国教員大学歴史教育科の書いた「韓国歴史地図」を読んでいるうち、学校での授業では教えないであろう日本の歴史が隠れている模様です。日本の歴史を知るうえで韓国の歴史は切り離して考える事は出来ないくらい深い繋がりがあった様なので、並行して勉強していきたいと思います。


伽耶新羅が成立した頃、洛東江北岸の6つの小国から始まった。


伽耶の中で、もっとも発展した国が金海(キメ)にあった金官伽耶であった。金官伽耶洛東江流域の沖積平野を支配し、農業の発展に最適であった。さらに楽浪郡と倭との海上交易の拠点として急速に発展していた。そのようにして1世紀頃にはこの地域で生産される豊富な鉄を用いて中国・日本との交易の中心地になった。伽耶では鉄が大量に生産され、優れた鉄製の道具も多く作られた。伽耶はこのような鉄器を楽浪と倭に輸出し、両地域の交易を中継する事で経済力を大きくした。伽耶は高い水準の文化をもち、その文化は後に新羅に大きな刺激を与えた。また一部の勢力は日本に進出し、日本文化の発展と国家成立に寄与した。

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4~5世紀の対外交易路 韓国歴史地図から引用

しかし、

伽耶は6国に分かれており、連盟は構成したものの、強力な統一国家はできなかった。小国それぞれが交易を通じて経済力を大きくし、独立していた為である。これら伽耶国は、早い時期から領土問題を巡って新羅洛東江下流地域で何回も戦ったが、常に敗れていた。こうして洛東江東岸への進出に失敗すると、伽耶は西方の百済と緊密な関係を結んで新羅を牽制した。
4~5世紀初めにかけて、新羅が、巨大化すると、伽耶は大きな打撃を受けた。しかし、427年に高句麗平壌に※遷都すると、新羅百済高句麗の南下に対応しなければならなくなり、その間隙を突いた伽耶は勢力を回復する事が出来た。


※遷都(せんと)都を他所へうつす(遷す)こと


この時六伽耶は高霊を支配していた大伽耶を中心に統合しょうとした。大伽耶伽耶の代表勢力に成長し、新羅高句麗百済の三国と競争しながら中国の南朝に使臣を送った。


532年  金海の金官伽耶新羅に服属した。
危機意識を、感じた伽耶の諸国は大伽耶を中心に新羅に立ち向かい、百済と同盟を結んだ。その為、
554年 新羅百済の間で管山城の戦いが起きた時には、伽耶百済を支援した。しかしこの戦闘で新羅が勝利した事で、百済側に立っていた伽耶は不利な立場になった。

伽耶新羅百済の圧迫と攻撃を受け徐々に勢力が弱体化した。結局、伽耶百済新羅のはざまにあって古代国家に発展できなかった。そして新羅の攻撃を受けて大伽耶が滅亡すると、歴史上から姿を、消した。

この様に、伽耶百済新羅と対抗し得る勢力には成長できず、国家の競争の中で新羅にほろぼされた。これは伽耶の文化水準が低かったためではなく、政治的統合の中心になり得る国が存在しなかったためである。

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