【古事記の世界】英雄!日本武尊
ヲウス(後のヤマトタケル)はオオタラシヒコ(第12代景行天皇)の皇子として出生し、後に武神とも軍神とも呼ばれたその体躯は2メートルにも及んだとされ、その姿は気迫にあふれていたと伝えられています。
また、その力は人間離れしたものとして描かれており、当時、強大な勢力となっていた大和朝廷に属していたヲウスは周辺の反抗勢力を次々と打ち倒していきます。
ヲウスは幼少の頃より超人的な力を持っていたようで、ある時、父親が「お前の兄が反抗的なのでお前から諭してみよ」と軽く命じられると兄の大碓皇子(おおうすのみこ)の手足を持ち前の怪力でもぎ取り、掴み潰してむしろに包んで捨ててしまいます。
これを知った父親は人知を超えた息子の力とその残忍性に恐れをなし、自分から遠ざける為に戦場へと送り込む事を決めたのでした。この頃九州の南部のクマソタケルという二人の兄弟が、朝廷に従わずに反抗し続けていたので、景行天皇の命によりクマソタケルの討伐を命じました。九州に入ったヲウスは、熊襲の首長のクマソタケルが祝事のため一族を集めて酒宴を催した日に、美少女の姿に変装して忍び込み、夜更けて熟睡するクマソタケルに近寄って短刀を突き立て誅伐する。クマソタケルは死に臨んでヲウスの武勇を讃えて日本武尊の号を献じた。こうしてヲウスは九州の熊襲を無事に平定しヤマトタケルを名乗るのである。次は出雲へと向います。出雲でもイズモタケルを見事に打ち倒すなど次々と戦功をあげていきます。
西国での大活躍を手土産に意気揚々と都へと戻ったヤマトタケルでしたが、休む暇もなく、今度は東国への出生を命じられます。
東国に向かう前にヤマトタケルは叔母の倭姫のいる伊勢神宮を訪ね、倭姫はヤマトタケルに三種の神器のひとつである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と小袋を与えます。
その後、野原で火攻めにあった際には天叢雲剣で周囲の草をなぎ倒し、小袋に入っていた火打石で火をつけ、逆に敵を焼き払って勝利をおさめます。天叢雲剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったのもこの時からだとされています。
東征を続けるヤマトタケルの前にはその後も様々な困難が立ちふさがり、上総国(房総半島)に渡る途中、海上で嵐に遭って窮地に立たされた際には海神の怒りを鎮める為に妃である弟橘姫(おとたちばなひめ)が自らの意志で海に入水すると嵐はやみ、ヤマトタケルは最愛の妻を失う事となりましたが無事に上総国に上陸する事に成功します。
東征を終え都へ帰る途中に尾張に寄る事にしたヤマトタケルはそこで出会ったミヤズヒメと結婚し、伊吹山の神を退治にいきますが、護身の呪力を持った草薙剣を妻に預けた事が命取りとなり、祟りにあってそのまま帰らぬ人となります。
死に際し、ヤマトタケルは次のような歌を残しています。
「倭は 国のまほろば、たたなずく 青垣、山隠れる 倭しうるわし」
ヤマトタケルの遺体を納めた陵墓からは白鳥があらわれ天に昇ったと伝えられています。
※くまそとは、九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々で、また地域名を意味するとされる語です。古事記には熊曾と表記され、日本書紀では熊襲、筑前国風土記では、球磨囎唹(くまそお?)と表記される。(現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)また5世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある。また、魏志倭人伝の狗奴国をクマソの国であるとする説で、中国の三国時代の歴史書三国志(西晋の陳寿の作)のうちの魏書の中の魏書東夷伝に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国と紹介されている (ウキペディア 参照)