日本人のルーツにつながる渡来人の謎にせまる

縄文・弥生・古墳時代辺りの歴史本を読んでると、渡来人と言う言葉が頻繁に出て来ます。コレは、古代の歴史を知る為のキーワードかもしれないと思い、少し渡来人の事を少し調べてみる事にしました。時は紀元前700年頃、日本では縄文時代晩期、あるいは弥生時代早期に相当する。紀元前660年が初代神武天皇が即位した、神武天皇即位紀元であり、いわゆる皇紀元年。その頃中国では、周王朝の後半辺りから、春秋時代戦国時代に突入し、戦乱に遭遇した住民らは危難を避けて部族単位で朝鮮や日本に移住するようになる。また紀元前473年には「呉」は「越」に滅ぼされ、「越」もまた「楚」にほろぼされたが、戦乱で故郷を追われて生活に困窮したこれら流民はここでも、部族単位で新天地を求めて海を渡り始めます。これが一回目のそれらが呉の渡来の始まりでしょう。


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縄文人は、日本に昔から存続している原住民の事であり、そういう事から弥生人は、弥生時代大陸から渡来して縄文人と交流して新文化を形成した人びと(大陸系弥生人)、縄文人新文化を受け入れて弥生人となった人びと(縄文系弥生人)、そして両者の混血で生まれた人びと、およびその子孫たち(混血系弥生人)が含まれ、両時代のあいだには区別するだけの明白な文化異変が見られるために、縄文を弥生という時代名 に分けたらしい。

ちなみに中国では倭人を「呉の太伯の子孫」だと云われてるらしい事から、我々の祖先のルーツに繋がりそうです。呉とは、中国の江蘇省揚子江以南の地方を言い、中国歴史上、呉の国は2度君主国家となった。三国志赤壁の戦いを映画化したレッドクリフでも有名になった呉の軍師周瑜(トニー・レオン)がいた国が呉になります。


222年~280年揚子江流域の建業に都を置いた呉は、晋の30万の大軍により包囲され、滅亡した。この呉の国の人々が大勢日本へ渡来し、稲作と鉄器、織物を伝えたといいます。これが二回目の呉の渡来です。


呉の人々は戦災や敗戦の混乱を避けるために紀元前473年前と222年~280年前の2回にわたりに日本に大量に渡来したらしい。その時に呉の国からの渡来人が織物が伝わり、呉の服が呉服と呼ばれ、倭の国の服が倭服(和服)とこんな所でも辻褄もあいます。

  季節風が夏には中国から日本へと吹いている。呉の人達は、夏に中国から日本へと吹く季節風を利用して、また黒潮対馬海流に乗り、九州や山口に容易に渡来出来た。
ちょっと調べてみただけですが、今までは、渡来人の事を、日本人以外の人種が日本に来たくらいしか思っていませんでしたが、水稲作や漢字、仏教、寺院建築技術などを日本に伝えたのが渡来人であり古代の日本における文化・政権形成に大きな役割を演じたことは間違いなさそうです。


では漢字はいつ日本に伝来したかというと、270~310年頃に百済から到来してます。しかし実際はもっと早く、1世紀ごろにはもう朝鮮半島を経て入ってきたともいわれています。


渡来人の往来を知り、今の私のまとめですが、弥生時代に、百済側からの渡来と呉からの渡来が大勢日本列島にやって来て、やがて邪馬台国を中心に伊都国や奴国といった連合国をつくり、それが後に倭という国に発展していったんじゃないかなと思う様になって来ました。という事は、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国卑弥呼が漢字を理解出来て当然ですし、漢委奴国王印の話も奴国の王が漢に対して何らかの国交があったので奴国の王も漢に対して貢物と何らかの書状を送って漢が、漢委奴国王印を贈ったのでしょうから、敵国と云われる狗奴国は弥生文化を拒んでいる古来の縄文人だったんではないのかと思うようになって来ました。今のところね…