大宰府政庁は九州の首都だったのか


単なるお散歩なのに"大宰府政庁は九州の首都だったのか"な~んてギョーらしいタイトルをついついつけてしまいました…(´。・д人)ゴメンヨゥ...

先日、太宰府天満宮へお参りに行く前に、大宰府政庁跡に散歩がてら行って来ました。がてらね~


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大宰府政庁跡付近は車では時折通る場所なんですが、何時も車の窓越しから眺めるだけでしたので、車から降りて散歩をするのは今日が初めてです。

素人のおんじが、先ず疑問に思っているのは、太宰府の太と大の大宰府の使い分けです。多分、大宰府政庁とかは点無しで、太宰府天満宮やら太宰府市なんかが、点有りなのかなぁ?なんて思っていましたが、"史蹟太宰府阯"と太の字で書いてあるやんね~まぁそのうち解るでしょうが……

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跡地なので建物なんかは何もない。何もないから、想像をして、あーだったのかなぁ?こーだったのかなぁ?なんて古代妄想で、楽しめます。


ここ太宰府について詳しい知識が無いので、この大宰府政庁がいつ頃出来たものなのか、先ずネットで調べてみると、文献上に「大宰」"だざい"と呼んでいいのか、それとも、"オオミコトモチ"とも読むらしいが、今のところおんじのレベルじゃちんぷんかんぷん~


大宰の文字が出て来たのが、609年「日本書紀」の筑紫大宰らしい※1 なので、大宰府政庁は倭(ヤマト)国もしくは、大和国と呼ばれていた、もしくは呼んでいた、地方統治機関であり、筑紫大宰の他にも東国・播磨・吉備・周防にもあった。豪族の国々を監視及び、大和朝廷の意向に沿って統治する役割など重要な拠点であった。特に九州の筑紫大宰は中国や朝鮮など大陸との外交窓口を果たしていたという背景もあり、大宝律令以降筑紫大宰だけが、残され他は廃止されました。

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階段を登ると、左手側に南門跡と書いて有り、右側を見たら中門跡と書いてありました。ここから全体を眺めるとその規模をしのばせる大きなな礎石が敷地全体に沢山残ってます。

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説明板に南門の復元模型の写真が載っていました。こんな感じだったようです。別名で遠の朝廷とも呼ばれていたのも分かるような気がします。

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左上の画像が中心の正殿のあった場所で石碑には都督府古址と書いてあります。

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第三期朝堂院形式[太宰府政庁復元模型]

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斉明天皇6年(660年)百済が滅亡し、百済復興をかけて天智天皇2年(663年)唐・新羅連合軍と対峙した白村江の戦いで大敗し、天智天皇は、唐が倭へ攻め込んでくるのではないかという危惧から大宰府政庁を守るような形で664年(天智天皇3年)8月に、筑紫に大きな堤に水を貯えた水城(みずき)を造った。水城は現在でも、地名として残っています。


古田 武彦の「九州王朝説」も面白い。古田は、「倭」とは九州のことであり邪馬壹國(邪馬臺國)は倭国の前身であるともいわれてます。そして首都が大宰府政庁??


※1推古天皇17年(609年)4月の条に「筑紫大宰(つくしのおほみこともち)、奏上して言さく」などの記述が、太宰府がヤマト政権の出先機関として設置され存在した証拠と考えられる 






以上の事から、大宰府政庁は第33代天皇推古天皇時代(飛鳥時代)辺りに建てられたって事で良さそうですが…