魏志倭人伝が書かれる前に消滅した最古の王国
そのクニの名前は早良(サワラ)王国です。
福岡市西区大字吉武にある吉武高木遺跡ですが、現在は公園として整備され「やよいの風公園」になってます。
先日行って来ましたが、まだ完成はしていないようですね。
今回は、近所の早良王国を現地で写してきた写真とネットの情報から調べて見ましょう。
「やよいの風公園」の入り口から正面に見える飯盛山、現在は飯盛神社が鎮座し神山として市民に親しまれている山でもあり、早良王国があった時代でも神山として崇められていた事でしょう。
飯盛山と整然と並んだ特別な墓群「最古の王墓」と説明板に書いてあった
この辺りの遺跡を、吉武遺跡群(よしたけいせきぐん)と言い、室見川(むろみがわ)中流域の左岸に立地する旧石器時代から中世にわたる複合遺跡になります。
特に弥生時代前期末~後期初頭の甕棺墓(かめかんぼ)、木棺墓(もっかんぼ)は10以上の群を為し、総数1200基にも及びます。
長大な甕棺の道「甕棺ロード」
その遺跡群の中にある吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)において、1984年度調査で弥生時代前期末~中期初頭の甕棺墓・木棺墓等11基より青銅製の武器や鏡、腕飾り、ヒスイ製の玉類などが多数出土しました。
後に遺跡は国の史跡に、銅剣や鏡などの出土品は重要文化財に指定されました。遺跡群内には同様に多数の副葬品を有する前期末~中期後半の甕棺を主体とした墓地である吉武大石遺跡(よしたけおおせきいせき)、中期後半の墳丘墓である吉武樋渡遺跡(よしたけひわたしいせき)があります。
この吉武高木遺跡は、中国の歴史書『魏志倭人伝』や『後漢書』などに記されている1世紀から3世紀にかけて存在した「伊都国」や「奴国」よりもさらに前のクニの存在を示唆するものであり、特に重要な遺跡として、平成5年に国の史跡に指定されました。また出土品645点は国が重要文化財に指定しています。木棺墓やかめ棺墓からは、青銅製の鏡や武器、装身具が出土しています。
公園内の説明板ですが、沢山の銅剣が出土してます。中でも、この説明板のM3にあたる3号木棺墓には細形銅剣2口、細形銅矛1口、細形銅戈1口、多鈕細文鏡1面、ヒスイ製勾玉、碧玉製管玉類が副葬され、勾玉・鏡・剣の三種の神器のセットが出土した意味は大きい。
この辺りでは弥生時代の初めの頃は、小壺や磨製石剣、石鏃等の副葬品が見られましたが、弥生時代前期末~中期初頭になると、朝鮮半島より伝わった青銅武器が副葬品として見られるようになります。
吉武高木遺跡では青銅武器の他、朝鮮半島に起源を持つ多鈕細文鏡と呼ばれる鏡も出土しました。このように副葬品を見る限り、吉武高木遺跡の被葬者は朝鮮半島に関係の深い人々であったことが分かります。
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/277/
福岡市博物館の HPアーカイブスの記事から、色々と想像を楽しめます。それにしても早良王国が何故消滅したのかが、気がかりです。日向峠(ひなたとうげ)を超えると伊都国に入りますが、伊都国もしくは奴国との戦に敗れ消滅か?もしくは、この地を何かの理由で捨てて、隣国と統合したのか?興味が湧きますね~
よそ様のblogの記事に「早良王国は天孫族で東征したので、空っぽになった」と書いてありました。それにしても、出土した物が朝鮮製という事が解り、後のクニがどういう風に影響を受けていったのか、また興味が増えてきました。
これは、面白いですね~今迄思っていた歴史感とは随分違う様です。伊都国と早良王国を結ぶ峠は日向峠(ひなたとうげ)と現在でも呼んでいます。
http://lunabura.exblog.jp/21314734/
※ 神武東征(じんむとうせい)は、日本神話において、初代天皇カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話。日向の都を大和に移す意味