韓国の歴史本からみた倭国

日本の古代の歴史を詳しく知る上で、隣国の歴史からも調べてみょうと思い

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この著書を読むと直ぐに、今までの固定観念の間違いに気づかされた様な感じがしました。日本の古代の歴史は日本建国を政治的に海外と劣らない様に見せかける為に歴史を古くからある様に編纂したと言うのもあるんじゃなかろーかと思います。それでは、本筋が見極められないと気づかされた感じがします。この著書は最先端のグラデーション地図と図表と説明も読みやすく書かれて、韓国の大学教員の方々が書かれてますので、双方から、日本の古代史を知る事が、出来そうで、役に立ちそうです。トップページの「朝鮮人の起源」ここも面白いが、簡素にまとめる為に、「新羅の建国」の記事をちょっとまとめてみたいと思います。


新羅朝鮮半島東南部の慶州(キョンジュ)平野を中心に発展した辰韓12小国の一つ斯蘆国から始まった。新羅の建国説話によると、斯蘆国に暮らしていた6つの村の頭目たちが、天から降りてきた朴赫居世を王として受け入れた時から新羅の歴史が始まる。これは、朴赫居世と6村の村長が連合して建国した事実を物語っている。実際に古朝鮮が滅亡した後、移住民が大集団でこの地にやって来た。鉄製の道具を使用する術を知っていたため、彼らは土着勢力に相当な影響を与えた。したがって、優秀な鉄器を持った移住民(赫居世勢力)が慶州の土着勢力(6村集団)を支配しながら国家を形成したと推測される。
~韓国歴史地図より~


こんな記事が書いてあり地図を見てたら、紫色の矢印で倭人の侵入と書いてあります。

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上向きの矢印が233・292・294倭人の侵入と書いてあり、下向きの矢印が232・364・393倭人の侵入と書いてある。ちょっと待てよ?

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この時代の日本って大和朝廷?王権以前じゃないか?卑弥呼は238年(景初2年) 以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。248年(正始8年)には、使者が狗奴国との紛争を報告しており、帯方郡から ※1塞曹掾史張政が派遣されている。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。~ウキペディア参照~




※1 張政  
 三国時代の魏国の支配地域であった帯方郡の武官で肩書は塞曹掾史(さいそうえんし)248年(正始8年)邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、魏から派遣された役人(塞曹掾史)。その後、20年近くを邪馬台国で過ごして奏始2年(266年)に帰国したとする説もある。


232~233は?ヤマト王権の侵入なのか?それとも、神功皇后卑弥呼?と調べてみました。先ず神功皇后の動きから…


199年  9月仲哀天皇神功皇后とともに熊襲討伐のために香椎宮を訪れる。


200年  2月熊襲討伐に敗北し、撤退し、香椎宮で崩じた。

神功46年以降は『百済記』が構文されている。


246年または366年 百済のクテイ、弥州流、莫古らが日本に朝貢したいと斯摩宿禰に伝えた。斯摩宿禰は、爾波移と卓淳人の過古を百済に遣した。百済の肖古王は喜んだ。王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち志摩宿禰らは日本へ帰還した。


247年または367年 4月、百済は日本に朝貢


249年または369年 神功皇后が、将軍荒田別及び鹿我別を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪と沙白・蓋盧らに合流を命じて、新羅を破った。比自、南加羅、喙国、安羅、多羅、卓淳、加羅の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利、辟中、布弥支、半古の四つの邑は抵抗もなく降伏した。


251年または371年 3月、百済はクテイを派遣し、日本に朝貢した。
252年または372年 9月10日、百済王は、百済倭国同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を献上した。
262年または382年 葛城襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。
これが神功皇后による「三韓征伐」で伝承にも垣間見られるように、新羅倭国による断続的な侵攻にさらされ、その結果として何らかのかたちで倭国支配下にあった期間もあったと考えられている。
こんな感じで、神功皇后は、夫の仲哀天皇の急死後、201年から269年まで政事を執り行なったとウキペディアには書いてあったが、一つの事柄に120年の開きのある年号が2つ書いてある。一方、卑弥呼の動きを探してみたい。
173年 倭の女王卑弥呼が、使わした使者が訪れた
193年 倭人が飢えて職を求めて千人も新羅へ渡る。
中国の歴史書による

239年 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる

240年 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書印綬を奉じて倭王に拝受させた。


卑弥呼の173~240年までの動きが分かる。神功皇后の動きが201年から269年まで….


ん…


神功皇后三韓征伐を福岡から行い卑弥呼は魏との交流を何処からしていたのか?もちろん邪馬台国であるが、畿内説に基づき邪馬台国を政権中枢が存在した地と考えられる奈良県纒向遺跡がある辺りを「大和朝廷」と位置づけ、卑弥呼が、魏との指揮を取る?その頃神功皇后は博多から三韓征伐の指揮をとる?二人の女帝が同時期に存在する事は2つの国と考えるべきなのか?それとも同一人物なのか?ウキペディア情報だけだったら、神功皇后卑弥呼が同じ時期になります。おかしい?どーも解き方が間違ってるみたいです。何処かが違うのか全てが違うのかも分かりません。編纂により、歴史を変えられているのか?年号が2つ書いてあるので、流れで早い年号で考えると矛盾が出るので、120年足した年号で考えてみる事にそうする事で、卑弥呼の時代から120年後に神功皇后と重なりはしなくなりますが…先々日本の古代の歴史の正解が解るのか…

ふぅ~

知れば知るほど底なし沼の様な感じがして来ました。