【その時歴史は動いた】 古代の日本を知る手がかりとなる『古事記』と『日本書紀』


古代の日本を知る手がかりとなる『古事記』と『日本書紀』は、天武天皇の命によって編纂(へんさん)されたというのが通説の様です。

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天武天皇

古事記』の記と『日本書紀』の紀を合わせ『記紀』とも称されるふたつの歴史書ともに7世紀の40代の天武天皇の命により編纂が開始されました。

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日本書紀の記述によれば、645年の中大兄皇子中臣鎌足が起こした乙巳の変

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乙巳の変 江戸時代に住吉如慶・具慶の合作によって描かれたもの。

により、天皇の御前で蘇我入鹿が殺害されると、蘇我蝦夷のもとに与する者が集まったが、翌日入鹿の屍を前にして、蝦夷は邸宅に火をかけ、自害した。享年59。なお、『日本書紀』によれば、天皇記』(すめらみことのふみ)はこの時に失われ『国記』(くにつふみ)は船恵尺が火中の邸宅から持ち出して、難を逃れた。後に中大兄皇子に献上されたとあるが、共に現存しない。これを憂いた天武天皇が正統な歴史書として『古事記』を、その後に『日本書紀』の制作を命じました。


何故ふたつの歴史書が必要だったのか


古事記』は国内向けであり、『日本書紀』は国外(主に中国)向けだという事です。
当時、平仮名やカタカナがなく、漢文しかなかった為、編纂に関わった大安万侶は日本語の響きで、日本語のままで読めるように『古事記』を表そうと苦心します。また日本という言葉はまだ登場せず、倭とか大和という言葉で日本を表しています。

日本書紀』では年毎に出来事を表す編年体で記述され、まさに歴史書。日本という言葉も、ここで初めて登場したそうです。国外向けに漢文で書かれています。ちゃんとした歴史を持つのは正統な一国としての証で、遣唐使によって献上もされたそうです。

古事記』は国内向けに天皇の正統性を訴えるもので、『日本書紀』は国外向けに日本という国の正統性を主張する物、といえます。

また現在使われている天皇という号も、編纂を命じた天武天皇の時に作られたと言われています。