日本武尊が亡くなり白鳥となり南九州へと飛び立った
《霧島弾丸ツアー⛩️白鳥神社》
霧島峯神社の別れ際、神職さんに白鳥神社までの時間を訪ねたら、農免道路を通れば30分掛からないと教えて頂き、現時間が16時、急がないと、日が暮れてしまう。ISO!GO!GO!GO!
ひたすら、農免道路を進むと、丁度16時30分白鳥神社の看板が見えて、矢印の方に曲がり山道を上ると一台の車と入れ違いました。
???もしかすると神社関係者のお方?いやいや参拝者ジャロ~ひょっとしたらアウトout!👍
居て下されば、御朱印も拝受できたかも知れないのが残念。でもまだ16時30分お帰りも普通17時タイムカードでしょうが...チャンスはまだある👌本題に入る前に答えを言っておきます。
答えアウト👍😭
⛩️白鳥神社
📍 宮崎県えびの市大字末永1479
御祭神 日本武尊
▪「熊襲討伐」に因縁か
『その昔、霧島山中の霊くつを巡って修行していた性空上人が、山中の六観音池のほとりに座し、法華経を読んでいると、こつ然と翁(おきな)が現れ、上人に告げた。
「私はヤマトタケルである。白鳥となって、この山中に住むようになって、とき久しい。上人の読経、苦しい修行の徳に感応して、ここに身を現した」
上人は、この因縁で神社を創建し、白鳥権現を祭った。また聖観音を本尊として、白鳥山満足寺(廃寺)を造営、ヤマトタケルの霊魂を守る社殿としたという。
ヤマトタケルの霊魂が白鳥となったということは、日本書紀景行天皇條にみえる。
天皇に服従しない東国の者を征伐した後、ヤマトタケルは近江国(滋賀県)の膽吹(いぶき)山で、大蛇に化けた山の神の毒にあたった。やっとの思いで伊勢国能褒野(のぼの・三重県)に至ったが、ここで亡くなった。30歳であった。
景行天皇は、これを聞き、「今より以後、誰とともに鴻業(あまつひつぎ)を經綸(おさ)めむ」と昼夜しのび泣き、伊勢国能褒野陵に葬った。そのとき、ヤマトタケルは白鳥となって陵から大和国を指して飛び去った。群臣たちが、ひつぎを開いてみると、中には衣服だけが残っていて遺骨はなかった。
白鳥の行方を追うと、大和国の琴弾原(ことひきはる)に止まっていたので、そこに陵を造った。白鳥はさらに河内国・旧市邑(ふるいちむら)に飛んだ。ここにも陵を造った。当時の人はこの3つの陵を白鳥陵と呼んだ。しかし、その後白鳥は高く飛んで天に昇ったという。
ヤマトタケルの化身・白鳥が、えびのに飛んできたというのは、景行天皇とタケルが日向に下って熊襲(くまそ)を討ったということに因縁を持つものであろう』
みやざきの神話と伝承101 『白鳥神社とヤマトタケル』より 一部引用
本来霧島六社権現とは、
・霧島神宮 (鹿児島県霧島市)
・霧島岑神社 (宮崎県小林市)
・霧島東神社 (宮崎県西諸県郡高原町)
・東霧島神社 (宮崎県都城市)
・狭野神社 (宮崎県西諸県郡高原町)
・夷守神社 (明治時代に霧島岑神社に合祀)
の六社のことですが、夷守神社は霧島岑神社に合祀されていますので、六社と捉えるのか五社と考えるのか、村上天皇の時代(平安時代中期)に霧島山などで修験道の修業を行った性空上人と関わりの深い白鳥神社を六社ともいわれてる様です。
さぁ境内へ進みましょう
個性的な狛犬さんがお出迎えしてくれました
私は予備知識なしで白鳥神社へ来たので日本武尊像像を見て、お会い出来た感メチャクチャあって感動しました。
龍の蛇口も素敵です。
拝殿の両脇は見事な紅葉でした。
帰宅後、調べながらブログを書き上げてからインスタにpost してますが、やはり下調べは必要でした。まぁ時間内に行きたい予定していた神社は全て行けましたが、霧島六社権現の龍柱の存在を知らなかったのは残念でした。神様が「またおいで」のサインとしておきます。
それにしても紅葉が美しい
社務所は閉まって無人でしたが、書き置きの御朱印を拝受出来ました。感謝です。